年賀状の話

年賀状の話

 

 先日、小学生時代の友人を駅で見かけた。10年以上も会っていないので、確信は持てなかったが、あの風貌はきっとそうだ。ただ結局、僕は気付かないふりをしてしまった。声をかけるべきだったのだろうか。「それほど長く会っていなければ、他人同然なので無視しても仕方がない」という意見もあるだろう。僕も同感だ。ただ、今回だけは話が少し違う。実は僕と彼には、10年以上も続く接点がある。年賀状だ。

  

 遡ること10数年。小学生時代の僕と彼は、まぎれもなく親友だった。放課後には公園で遊んだり、ゲームに興じたり、時にはお互いの家に泊まったり。彼と作った思い出は数えきれない。そして親に促されたのだろう、当時から年賀状のやり取りもしていた。

 

 そんな僕らを隔てたのは進路だ。僕は地元の公立中学校へ、彼は電車通学の私立中学校へ。僕たちは小学校の卒業式で、別れを惜しみ「また遊ぼう」と約束したのを覚えている。しかし、子どもとは薄情なもので、各々の中学校で新しく友達ができると、自然と疎遠になっていった。ただし惰性からか、年賀状のやり取りは続いた。

 

 高校に進んでも、大学に進んでも、社会人になってからも年賀状のやり取りは続いた。文面は近況報告もあったが、ほとんどは「いつか会えれば、お酒を酌み交わそう」といった社交辞令じみたものだ。僕たちは今年27歳を迎える大人なのだから、年賀状に連絡先でも記せば、飲みに行くのは簡単だろう。しかし、それはしない。お互いに「いつか会えれば」のいつかは、いつまでも訪れないと分かっているからだ。その諦めと気楽さが、ずっと続けられた理由なのかもしれない。

 

 駅で彼を無視した理由は、きっと怖かったからだ。声をかけてしまえば、縷々と続いてきた関係性が壊れてしまう。来年から年賀状を送る理由を失ってしまう。そんな気がした。これは勇気がなかった僕の言い訳かもしれないが。 

 

 来年もきっと僕は、彼に年賀状を送るのだろう。「いつか会えれば」と一筆添えて。